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精神科学自由大学・第一クラスについて(3)−1

 精神科学自由大学•第一クラスについて(3)−1

 アントロポゾフィー協会の構成のうちにおける精神科学自由大学と部門の分節

1924130

ルドルフ・シュタイナ一

 

 これから、だんだんに、わたしたちは、ここドルナッハにおいて、いわばひとつのモデルケ一スにおいて、アントロポゾフィー協会になくてはならないものを、設けていくことになります。それができるのは、ここドルナッハにおいても、これからの協会の分節と普遍的な構成が、どう考えられているかについての、しっかりと普遍的な理解があってこそです。

 

 さて、わたしは、クラスヘの申し込みとともに、かずかずの手紙を受け取りましたが、そうした理解がまだ行きわたっていないことが、その手紙から分かりました。そのため、これから設けようとすることを設けるまえに、いくつか、欠かせないことついて話さなければなりません。ですから、次の三回 一金、土、日一 の講演も、まったく普遍的に、アントロポゾフィー協会のすべての会員に向けてもちます。それぞれのクラスに向けての講演は、次の週から始めます。それまでには、まずもって設けられる第一クラスに加わるかたがたが、すっかりはっきりするでしょうから。

たとえば、いちいちの手紙に強く表れていた、いくつかのことが、なくならなければなりません。手紙には、土、日の講演だけでなく、金曜日の講演も聴かせてほしい、とだけ書かれているのもありました。いかがでしょうか。そこから、このことがはっきりします。協会そのものの分節ということと、協会のうちに設けられる三つのクラスというものが、まだしっかりとは理解されていません。そして、今日は、それについて、いくつかのことを話したいと思います。

 

 なるほど、第一クラスに向けた話を、どの日にするかということなら、どの日でも、まったくかまいません。なんなら、金、土が普遍協会、日曜日が第一クラスというように割り振りを変えることもできます。いかがでしょうか。ことがらが、そう軽くとられてはなりません。ことがらが軽くとられてはならないことは、まさしく要綱におけることごとの厳密な述べかたからも、はっきりするはずです。実に要のことは、アントロポゾフィー協会がどんな協会になるべきかを、まさにいま見通す(einsehenいわば「それとしてとらえる」またはたんに「分かる」の意です)ことです。

 

 まずひとつに、アントロポゾフィー協会は、秘密をもてあそぶところでなく、どこまでも他の協会と同じく公けの協会です。耳を傾ける人のだれにも、そのことが知ってもらえるよう、こころがけたいものです。アントロポゾフィー協会が設立された、19121913年の時点から、そのことがすぐに理解してもらえたなら、どれほど嬉しかったでしょう。そうであれば、多くのことが、いまよりも楽に運んでいたでしょう。そもそも、その時、わたしは、これも対策のひとつでしたから、アントロポゾフィ一協会の本質的な運営から退きました。そして、ひたすらに、アントロポゾフィ一協会に注がれるべき認識をもたらす者、ないし、こころざしをもたらす者であろうとしました。それは、アントロポゾフィー協会が 一こころざしをもたらす者と運営をする者が、ひとりでないことにより一 世において楽に働くことができるであろうし、アントロポゾフィーのことがらについての判断を確かにするであろう、という見込みからでした。

 

 しかし、そうはいきませんでした。そこから、まさにいま、このことが欠かせなくなりました。わたしが、こころざしをもたらすことをするとともに、協会の代表をも引き受けるということです。かつては避けようとした、まさにそのことです。

 

 それは、なんとも困難な決定でした。そもそも、それによって、すべてが変わることになりますし、また、ここ数年のなかで習いとなっているもろもろのゆえに、あれこれをおおもとから変えるのは、はなはだ難しく思われます。

 

 アントロポゾフィー協会は、みずからの位置を、ふたつの側にむけて、きちんと知る必要があります。ひとつに、アントロポゾフィー協会は、世におけるひとりひとり、こころにおいて精神への道を求めるどの人のためにもあること、すなわち、そのかかわりにおいて、まったく公けの協会であり、外に対してまったく自主的な協会でなければならないことを、意識する必要があります。ですから、アントロポゾフィ一協会において、受け入れということにつき、狭い心でいることは許されません。

 

 そのことが十分に知らていれば、アントロポゾフィーのことがらにさほど適っていない人がアン卜ロポゾフィー協会にいても、なんの不都合もありません。ただ、アントロポゾフィー協会は協会のうちのひとりひとりに対して責任あり、とするかぎりは、おのずからながら不都合がかずかず生じます。アントロポゾフィー協会は、どの人にも、その人がさきに言う方向で求めるものを与えることが、制約なしにできる協会であってほしいものです。

 

 しかし、ふたつに、アントロポゾフィー協会は、なんらかの知られざる、または定かならざる意図から設立されたのではないことを、はっきり自覚している協会であってほしいものです。そのことは、すでに19121913年の時点でも、明らかでありえたはずです。そもそも、その時には、教え(Lehrgut)の多くが出ていましたし、精神の世が、いまという時代において、わたしたちに語ろうとするところを、ここ物質の世において実現しようとするこころざしも、それなりにありあわせていました。すなわち、このことが、自覚されなければなりませんでした。その時、アントロポゾフィー協会は、しかじかを理想とすべきであるというような抽象的な原則をもとに設けられたのではなく、リアルに存在するもの、そこにあるもの、長い年月をかけて取り組んできたものをもとに創設されました。そして、その取り組みを育むこと、そこから芸術、宗教、社会、つまりは人の生きる、あらゆる分野に向けて出でくることごとを仕立てあげること、それが、ひきつづき、アントロポゾフィー協会の務めです。

 

 さて、そのことを、ふさわしくとらえてみるなら、いま、アントロポゾフィ一協会は、ほかのすべての協会と、そもそもにおいて異なります。そもそも、ほかの協会という協会が設立されるのは、リアルなものを基にしてではなく、さまざまではあれ、人の意図を基にしてです。

 

 だからこそ、いわゆる規約においても、アントロポゾフィー協会は、ゲーテアーヌムから発する精神の生命をふさわしいと見る人を広く会員とする、ということが強くうちだされました。すなわち、しかじかの原理を守るべきである、というようにはうたわれていません。すべては、人のもとにすでにあるもの、少なくても人のもとにありうるものに基づいています。

 

 それが、すこぶる重きをなすことです。さらに、こうも言うことができます。アントロポゾフィー協会は、ひとつの時代意識を内に育もうとするにおいても、まさにいま述べたことを顧みることなしには、育むことができません。そもそも、わたしたちの時代、いまという時代 一どうぞ、このことばを厳粛に受けとめてください一 わたしたちの、いまという時代は、大きな決定の時代です。多くのこと、途方もなく大きなことが、人という人に向けて、いまという時代に決まります。いまという時代は、おのずからながら、長きに渡りますが、しかし、多くのこと、はてしなく多くのことが、人という人に向けて、いまという時代に決まります。多くの人は、いまという時代が大きな決定の時代であることについての意識をもちあわせていません。アントロポゾフィー協会においては、なによりも、その決定にむけて、きっと、ひとつの強い意識が育まれます。

 

 すなわち、一面においては、きっと、こうです。アントロポゾフィー協会は、たとえばこういう原則を立てることは許されません。わたしは、信頼できる人たちを選ぶ。そして、その人たちが、その人たちのシンパシーとアンチパシーに従って、だれを受け入れ、だれを受け入れないかを決めることができる・・・。そのことがかなりのほどになされていたために、アントロポゾフィー協会に入ろうとして入りがたく感じる人が、だんたんと多くなりました。くりかえし、こういう判断が耳にされます。なるほど、アントロポゾフィーはいい、しかし、アントロポゾーフには耐えられない・・・。ほとんど毎日のように、そうしたことの実際的な結果が、つきつけられます。

 

 アントロポゾフィー協会が、ありうるかぎりの広い心に向け、ありうるかぎりの熱い心に向けて理解を示さなければ、アントロポゾフィ一を育むのに欠かせないことをアントロポゾフィ一協会によって育むとことが、はなはだ難しくなります。狭い心と投げやりな心を、アントロポゾフィーのことがらは、耐えることができません。

 

 さて、いまは、いたるところで目にされるとおり、人と人のかかわりが、精神の実質をうちに含みつつリアルに働きかけ、その精神の実質によって得られたかかわりを育むよう盛んに促します。わたしたちが、まさにいま目にするとおり、いたるところで、人々の輪が 一大きな、世界規模での人々の輪が一 ふたたび盛んに働きだしています。まさにいまが、人の心における大きな決定の時代であるからです。

 

 そして、アントロポゾフィ一協会が、いまという時代において、ともに語るものとなることができるのは、さきにふれた意図が、アントロポゾフィ一協会の会員のかたがたにより受けとられてこそです。

 

 さて、なによりもこのことが、なおさらしっかりと立てられなければなりません。アントロポゾフィー協会に対する、会員ひとりひとりのかかわりは、どのように考えられるでしょうか。アントロポゾフィー協会の教え(Lehrgut)というように呼ばれるもの、こころざしというように呼ばれるものは 一いくたび話したでしょうか一 どの人も、普通の分別を用いようとするするだけで、見通すことができます。アントロポゾフィーとして世に出ていくものを理解するために、イニシエーションを要するなどということは、まったくありません。予断をもちこみさえしなければ、理解することができます。

 

 まさに、予断をもちこみさえしなければです。ただ、予断をもたずにいるということが、わたしたちの時代においては、なかなかなされません。そもそも、人という人が、精神の世とのかかわりを、ほとんど失っています。そして、いまは、こういう判断にも出くわします。たしかに、精神の世は、ある。しかし、精神の世は、秘密である。人の分別は、精神の世のしかじかを見通すには適っていない・・・。そして、精神の世が秘密に満ちて現れることが、精神の世を見やることのふさわしい質と見なされます。人の知りえないもの、人がただ予感しかできないもの、人がただただ感じるべきもの、それが真に精神的なものと見なされます。多くの人は、精神のものが理解されるものでもあることを、認めたがりません。そのための勇気をもちあわせません。そして、こんなふうに言いたがります。精神のものは、きっと、人が予感するものであり、人が理解しえないものであり、秘密であり・・・。しかし、精神科学という精神科学は、秘密がまさに開かれること、秘密がまさしく公けになることをもってなりたちます。

 

 こうも言うことができます。秘密を世に向けて立てること、秘密を開くことを目指した、ただひとつの大きな機関、それがカトリック教会です。もちろん、そこに属する人たちが、つねに、そのことを見通していたわけではありませんが。ふさわしく理解してみるなら、カトリック教会は、精神の世の内容を、理念、概念として表してはならないということに対して、いささかの理解ももちあわせません。そもそも、カトリック教会のよりどころは、秘密であるもの、さしあたり感官の世にとっては隠れているものを、考えとして表すことです。すなわち、人が、いま述べた気分をもつようになったのは、ここ数百年においてです。しかし、その気分が、きっと、いまからは、また消え去っていきます。人が、きっと、ふたたび、このことを見通します。ほかでもありません、人であることの課題は、秘密に満ちたものを開くにいたることです。

 

 わたしは、八十年代に、まずウィ一ンにおいて、いわゆるテオゾフィ一協会の人たちと出会いました。なかには、テオゾフィー協会の最もインティームなサークルに属している人もいました。そこでは、こんなことばが、しきりに使われました。「底無しに深い」ということばです。ときには単純なことも引き合いに出されましたが、その単純なことを、その人たちは理解することができませんでした。つまり、底無しに深いからです。そして、そういう人のひとりに、そのことをどうとらえていますかと尋ねると、それは言うことができない、底無しに深いからだという答えが帰ってきました。そんなふうに、やたらと秘密をふりかざし、なにかというと、それは秘密だと告げることをもって働くことを、アントロポゾフィ一協会は許されません。アントロポゾフィー協会こそは、このことを心掛けたいものです。協会の内のひとりひとりが、アントロがゾフィーの精神の世について述べられるところを、親しく、リアルに知ることです。そのことをおいて、協会の内にいることの目的はありません。ひとりひとりが、ひとまずは、述べられるところを理解するよう努めてほしいものです。これは、過大な要求ではありません。さきにも言うとおり、杓子定規が幅をきかせることのないように・・・。わたしは、これから、いくつかの方針を述べますが、それもまた、杓子定規に、なにがなんでも守れというものではありません。例外は、きっと、いたるところに出てきます。こちらの方向、あちらの方向において、多くの例外が必要にもなるでしょう。しかし、事実として、アントロポゾフィー協会の内にすでにあるもの、これまでの仕事のなかで生みだされている教え、こころざしのさなかにおいて舵がとれるまでには、二年かかります。アントロポゾフィ一協会に入って二年に満たない人が、そのまま第一クラスに入ったとしても、さしたるメリットはありません。第一クラスに入るということは、なにも考えず、まずは、アントロポゾフィーとしてすでにあるものをリアルに知るということ 一もう、それだけで、することは十分にあります一 そのことを考えるほうが、その人のためになります。

 

 そして、ここからは、アントロポゾフィ一協会の本質的なところを述べることになります。そのことを、わたしは会員のかたがたに語りかけたことの三つ目のことにおいても、手短かでしたが、協会の本質的なところとして話しました。

 

 人がものごとを外から見るならば、こうも言えるでしょう。アントロポゾフィーが与えてくれるものは、本で読むことができる。公開の講演で聴くことができる。つまり、わたしひとりで知ることができる・・・。それは、だれもができます。また、そういう人がいても、それはそれで、まったくかまいません。それは害になりません。むしろ、逆です。その立場にとどまる人も、できるだけ多く世にいてくれたなら、どんなにいいことでしょうか。その人たちが、こう言いいます。協会は要らない。わたしは文献のうちに与えられているものに取り組む。あるいはまた、アントロポゾフィーから公けに及ぶものに取り組む・・・。アン卜ロポゾフィー協会があるのは、ほかでもありません、アントロポゾフィーを生かすためです。アントロポゾフィーがあるにもかかわらず、協会がある、そのことのふさわしさが、まさにここにおいて出てきます。アントロポゾフィーは、人のもとに生きるべきものです。そもそも、要となるのは、このことです。アントロポゾフィーが人のもとに生きるにおいては、人と人が、ともどもに、ともどもの精神の目標を追うことの、いかなるかを、リアルに顧みます。そのことは、すなわち、いとも大いなることです。

わたしは、アントロポゾフィ一協会の支部に出かけて行くことができます。そこでは上手にしろ、下手にしろ、なにかの話がなされます。そこに出かけて行く人は、そこで話されることを、とっくに知っています。すでになにかで読んでいます。協会において、なにはさておいても、ふさわしくないことというのは、出かけてきた人が、こういう判断をもって去ることです。わたしは出かけて行くまでもなかった。そもそも、そこで話されたことは、すでに知っていることだった・・・。アントロポゾフィーの協会という立場に立つにおいては、リアルな感覚こそが、判断としてものをいうようになるはずです。

 

 人は、食べることをしても、ふつう、こうは言いません。鶏肉は食べるまでもなかった。そもそも、わたしは、それがどんな味かを、すでに知っていた。その口当たりにしても、その舌触りにしても、わたしは知っている。鶏肉が、わたしにとって、どういうものかを、よくよく知っているのに、それをわざわざ食べる必要がどこにある・・・。いかがでしょうか、そう言うとナンセンスではありませんか。

 

 同じく、こういう判断が出てくることも、まったくありえないはずではありませんか。アントロポゾフィーの会員の集いには、出かけて行くまでもない。そもそも、そこでさしだされることを、わたしはすでに知っている・・・。しかし、そのような感覚が出てくるのも、もっともだという場合には、まさしく協会へ、いちいちの支部へと出かけて行くことが必要になります。すなわち、そこでなにが話され、なにが議論されるのかを知るためばかりでなく、そこに人がいるからこそ出かけて行くということです。人は人のために出かけていくことが、きっと、できるはずです。

 

 そして、このことが、きっと、おおもとから知られるところとなります。人がアントロポゾフィ一協会に出かけて行くのは、たんに教えてもらうためでなく、アントロポゾフィ一協会にいる人、いちいちの支部にいる人と、ともにいることができるためです。アントロポゾフィ一協会が花も実もある協会となるかどうかは、人が、人のこころにおける、すなわち、みずからのこころのみではなく、人のこころにおける、アントロポゾフィ一の生命を、感じとることに懸かっています。そうでなければ、アントロポゾフィ一協会に入っている人が協会に出かけていくのは、なにかを知るためであるということになります。そして、人を見いだしたいときには、人が身近に集まるところ、お茶会とか、なんとかの会に出かけることでしょう。言わんとすることは、つまり、こうです。人は、人を必要とします。しかし、アントロポゾフィーの協会のうちに、このことは、あることが許されません。すなわち、人のためとは違うことのために出かけて行くことです。そして、このことが、きっと、こころに掛けられます。すなわち、アントロポゾフィーが内に生きる人のために、アントロポゾフィ一協会へ出かけて行くことです。そのことをもって、ひとつの、まったく新たな元手が、協会におけるアントロポゾフィーの生命のうちへと、やって来ます。それは、きっと、欠かせないものです。すなわち、紛れなく人間的なものという要素がやって来ます。それは、いまという時代に、まさしく際立った意味において求められているものです。

 

 知ってのとおり、わたしたちはクリスマス会議のあいだ、しかるべきかたがたに、外の世における、いまという時代の精神の生命について、経験するところを書いてくださるよう、お願いしました。『会報』ならびに『ゲーテアーヌム』誌の編集者であるシュテフェン氏に宛てて、協会の内と外における精神の生命につき、経験するところを書き送ってくださるよう、お願いしました。そして、わたしは、そのことの意義について思うところを、この前の会報で述べました。