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経済学の前奏曲〜互恵性・生産ー消費

互恵性

 

 土地・労働・資本という語句を自然・人間・精神と言い換えることによって私たちが目指したのは、原初の経済的瞬間を常に思い出すよすがとなるような言語をみつけることでした。あらゆる経済生活がその瞬間から進化し、経済学の骨格はその瞬間を思考の中で練り上げることによってできたのです。経済学の中にさらにわけいっていくために、これまで自然と精神の相互関係、ならびにそれらに不可欠の統一性に関して述べられてきたことをまとめてみる必要があります。そのために必要な概念が「互恵性」です。経済プロセスは、その要素がすべて互恵的な関係にあるという事実を通じて永続性を獲得します。人間は自己の能力を表現することによって価値を作り出します。価値の交換を通じて資本が生み出されていきます。資本が今度は新しい能力を呼ぴ起こしますこれは単なる循環的プロセスではありません。それは完結した、自給自足的なプロセスであり、より良いものに練り上げていくことはできますが、本質的要素以外のものは受け入れません。

 

 経済プロセスは有機体であって自己の生命を維持していくことができます ―人間がそれを妨害することがなければ。人間はこのプロセスを病気にし、毒する力をもっています。経済的思考が不十分なときに人間はこのようなことをします。不経済状態を生み出すのです。経済プロセスそのものを病気にするというのではありません。ありがたいことに人間には原型を破壊するほどの力はありません。ただ、経済プロセスに誤った地上的表現を与えることはできるのです。それによって、秩序が支配すべきところに無秩序が現れます経済プロセスが駆逐されると、社会秩序全体が不安定化するのです。

 

 現代経済学には互恵性という考え方が顕著に欠けています。この言葉自体が理解されていないとか使用されていないというわけではありません。互恵性の深い超越的な重要性の探求が行われていないのです。互恵性は発明物ではありません。人間が考案しなければならないものではないのです。それはただ存在しているものなのです。それなしでは生きていけないものなのです。人間にとって、また経済学者にとっての課題は、それを認識し、具現化していくことです。

 

 互恵性について別の言い方をすれば、それは「自己のバランスをとる」ということです。生産はそれだけならばバランスを崩すものです(現代の消費者団体には周知のことですが)。それは消費によってバランスを回復します。人参を生産すると自然の中に不均衡がもたらされますが、腐敗プロセスによって自然はバランスを取り戻します。命あるものはすべて死ぬために生まれ、生まれるために死にます。このプロセスは終わることがありません。

 

 この点を強調する理由は、現代経済学が外的な諸カと限定された事柄の枠内で考えているからです。現代経済学では、再利用不可能な資源の減耗償却を考慮しますが、その際、無責任にそれらを消費するやり方が、石油の生産ということを非常に軽視するような文化を生み出している、ということに気づいていません。また、その実践によって作り出された、社会を衰弱させるような緊張関係を意識に上らせることもできていません。こういった場合に、互恵性は社会経済学的な作用をします。つまり、社会全体に対して影響を及ぼし、そこからまた経済に働きかけるような結果が出てくる、ということなのです。現代経済学ではインフレについて、価格の上昇をもたらすとしか考えていません。上昇し続ける地価と、土地に対する資本の投入(経済的に不可能なこと)との関連が見落とされています。また、このような誤った価値に対して取引を行えば、経済生活は破綻してしまう、ということも理解されていないようです。虚偽の価値と真の価値との交換、資産と負債との交換がなされています。これでは、経済の未知の部分からの打撃を受けることからは避けられないでしょう

 

 もしインフレを生み出すような条件を互恵性を通じて見通すことができ、また互恵性を通じてデフレ効果を持つような条件を作り出すことができたらどれほど容易になることでしょう(ちなみに、賃金の抑制はデフレプロセスではありません)。それは、帝国の衣装を剥いでいくことと、帝国を力づくでバラバラにしていくこととの違いです。さらに言えば、知ると知らぬとの差です。実際のところ私たちの経済学への無知は、不経済を生み出すばかりでなく、私たちに先行きに対する不安をも与えるのです。私たちは習慣に固執することによって恐怖に出会うのです。互恵性は作用を続けますが、私たちの現前の利害に関わりなく、破局ヘの道に私たちを追い込みます。その破局は、経済的意識を発達させなければ避けられないのです。

 

 互恵性の考え方によれば、経済には外的な諸力というものはありません。経済は自給自足的な統一体であって、人間はそれを阻害することができるだけです。不経済状態を経験しているとき、原因を外部に求めるのは不毛なことです。私たちはまさに自分たちの行為に注意を向けるべきなのです。原因は私たちの鼻先より遠くにはありません。思考に関していえば、それは観察と仮説の差であり、知覚と発明の差、統合と知性の差、経済的意識と経済的無自覚との差なのです。

 

 経済プロセスは植物にたとえることができます。植物と同様、経済は病気だったり元気だったりします。けれども、病気の植物をそれとして論じることはできません。なぜなら植物は原型的に存在するからです。植物の原型は、地上的条件の「衣を着せられて」地上の存在に作り上げられます。ですから、病気の植物というとき、その植物が地上で出会う諸条件がその完全な本来のあり方を許さない、という意味になるのです植物の健康を回復するためには、それを取り巻く条件、往々にして人間が作り出した条件を、何とかしなくはなりません。とはいえこれは行動主義的な考えではありません。環境が植物を作ったといっているのではないのです。肝心なのは、地上で自己を表現するために植物は地上的なエレメントを「身に纏わ」なくてはならないということです。これらのエレメントを植物は自分の肖像にあわせて形作ります。もしそうでなかったら、すなわち地上的エレメントが植物を作るのだとしたら、炭素を含む植物は全て同じ姿になるでしょう。というのは、炭素は地球のエレメントだからです。事実はその反対です。地球は形姿に対して発言権がないのです。炭素は実際はコピーの道具であって、あらゆるものの形姿をとることができます。炭素その他の地球のエレメントから植物を作り出すことはできません。植物は原型的に存在していて、地球の中に形成的に作用します。地球の力が及ぶのは、この原型が自己を表現する際に正確にさせるか歪めてしまうか、というところまでです。花の原型は、それが自然に咲いたものか強制的なものか、という形で認識できます。この強制は通常の地上での在り方が歪められた結果にすぎません。それによって植物は、伸ぴすぎたり、速く成長しすぎたり、早く枯れてしまったり、香りがあまりしなくなったりします。このように様々な変形や状態は、原型と比較することによってのみ認識できるものなのです。

 

 経済学に関しても同じ考え方が当てはまります。ある意味で経済理論は人間が植物を発明しようとするようなものです。理論に磨きをかけ、完全なものにしていくことはいつまででもできますが、理論から実践に到達することは決してできないでしょう。人はすばらしい思想の織物を作り上げることができます。けれどもそれは現実に直面すると消え去ってしまうのです。炉辺の飾りにはいいかもしれませんが、経済プロセスの解明には役に立ちません。植物のように、経済プロセスは原型的なものです。経済学者の課題はこの原型を形作ることなのです。

 互恵性は、シュヴェンクの水に関する著作*の中で具体的に描写されています。この本は経済的思考の真の姿を捉えています。水と大気(生命の担い手)の中では、下降があれば必ず上昇もあります。川では下向きの渦巻きは上向きの渦巻きにつながっています。気圧の低いところは高いところを反映しています。この下降と上昇という考え方は経済的思考においても大きな価値を持ちます。文化生活の中に贈与が沈んでいき、新しい能力が飛ぴ出してくる。発揮された能力が沈んでいった結果資本が飛ぴ出してくる。お金が土地に投下されると、インフレが飛び出してくる。

 

 あらゆる下降と上昇の間には、全経済プロセスの仲介者である人間がいます。人間は互恵的に働くものなのです。人間を通じて、自然と精神は互恵的に結合されるのです。

 

Theodor Schwenk: "Sensitive Chaos", RudolfSteiner Press, London, 1965

 

 生産―消費

 

 これまで、生産と消費について、またそれらの理想的な関係について論じてきました。生産されたものは全て消費されます。しかし、このことを実際的にまた完全に経済的に達成することはそれほど簡単ではありません。経済学において私たちは、自然界ならびに精神界に対する人間の特殊な関係に注目します。人間は自己を意識するためひっきりなしにこれらの二つの世界を分節し、再び結合しなければならないようにできています。それは人間の本性であり、他の可能性はないのです。この人生の事実は経済的には特定のかたちで現れます。消費は眼前の欲求を充たすということに従っています。生産は、先を見ること、眼前の欲求を超えて最終的には他者の欲求を見る、ということを意味します。もっと正確に言えば、消費は自分自身のために行なうのです(私はあなたの代わりにパンを食べてあげることはできません)が、生産は他者のためになされます(誰もが自分でパンを作っていたら、パン屋は存在することができません)。もっとはっきりいえば、自然からはいつも一人分の必要より多くが充たされるようになっています。人が自分自身の生産で自分の欲求を充たせるとすれば、それは偶然によります。

 

 人間の経済においては生産と消費は不自然な関係におかれています。自己のための消費と他者のための生産というとき、生産物がきっちり消費され尽くすというふうに考えられがちですが、実際はそうではありません。生産と消費はそれら自体ではバランスは取れないものです。それらは両極に分かれていくのですが、それら自体ではその双極性を解消できません。この双極性を解消するものを経済学が実際に示すことができることを私は望んでいます。

 

 これまでの描写の中で、生産から消費へ向かう動きが押したり引いたりする力を経済プロセスに及ぼす様子を見てきました。そのように経済プロセスは動かされています。上で述べた双極性をより正確に、人間に直接関連づけて描写するには、自己を表してゆく人間の精神を「押す力」、充足を求める人間の欲求を「引く力」ととらえるとよいでしょう。

 

 ところで、精神は自己実現の際に必ず欲求を作り出しますし、欲求が充たされるときには必ず精神の自己実現があります。ですから経済学は、地上で自己実現しようとする精神から生じるものである、ということができます。が、これは高度に個人化されたプロセスなのでそれ自体不均等な状態を作り出します。全ての人がおのおの自己実現する精神の一つの例であるということは、私たちの欲求が画一的で生産を自動的に統制できるという意味ではないのです。それは反対に、私たちの欲求は人それぞれで、ますます多様化してゆくということを意味します。常に変化し、ダイナミックです。したがって、生産を有機的に組織する必要があります。さらに、精神の自己実現による分節効果に対抗するため(互恵的な)統合的要素が必要です。この要素を理解し見極めるのが私たちの次の課題です。

(訳:佐藤由美子)

 

著者:クリストファー・ホートン・バッド

 

 

 

長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています