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経済学の前奏曲〜労働の分化(分業)・利他主義・需要・交換

 労働の分化(分業)

 

 精神の自己実現における分節化は「分業」というかたちで現れます。それは、かつては全体が一人の人によって行われていたような仕事が要素に分けられ、それぞれ、別々の人が行うようになるプロセスです。このプロセスによる生産性の上昇とそれに伴う資本の形成はよく知られています。そのいい例が(社会的影響は別として)フォード自動車によるT型フォードの大量生産*です。また、「機能の分化」もしくは専門化を論じることもできます。極端にいくと、このプロセスにより、一人の人が自分の職能という一つのことしかしなくなります。これは、一人の人が全てのことをやるという状況の正反対です。けれどもまさにこの機能の分化によって、精神が地球の隅々まで浸透し、地球をつかみ、変容させることになるのです。このことは人間生命の外的な表現として起こります。人は、生きて発達するために自己の存在を展開しなければなりませんが、それには地球を変容させるような働きかけをするしかないのです。

 

 機能の分化は無味乾燥な経済の一範疇ではありません。それは深遠な精神の進化のプロセスなのです。それとともに、同じくらい重要な事実がもたらされます。一人の人が何もかも生産するとき、その人の分化されていない労働は、常にその人自身のためになされます。現代的意味での自己充足性というのは、すべての人が自分のためにある、ということを微妙に言い表しています。反対に機能の分化によって、人々が他者のために生産する、という状況がつくりだされます。機能分化のエゴイズムはかくして、他者のための生産、という利他主義へとつながり、それと分かちがたいものとなります。機能の分化は下降であり、利他主義は上昇なのです。

 

*(訳注)T型フォードの大量生産:フォーシステムと呼ばれるこの生産方式は、部品の標準化によって自動車生産に極度の分業化と流れ作業を実現し、現代的マスプロダクションの先駆けとなった。

 

 利他主義

 

 「利他主義」という言葉を用いるとき注意すべきことは、経済学の中に道徳的調子を忍び込ませないようにする、ということです。この語は、「汝、他人のために生産すべし」とか、「他人のために生産するものは幸いである」といった意味ではないのです。それはひとえに、経済的にいって生産の基礎となるものがそれしかない、という意味なのです。「古き良き」物々交換を夢見てその状態に立ち返ろうとする人々は、現代人の意識状態が資本の解放という事実にいかに多くを負っているのかに気づいていません。交換経済の特徴の一つは、資本が経済の領域に閉じ込められている、ということですが、それによって精神的な冒険も進歩も起こらなくなる、ということが見通せていないのです。現在、交換経済を行なっている現場を見れば、そこには不活発な精神、変化しない環境があるということがわかるでしょう。そこではまた、交換経済を超えて資本主義経済に移行しようという努力 ―西洋人の一部が経済的天国であると信じているまさにその状況から逃れるため― を認めることができるでしょう。経済史の時計の針を戻そうとするような試みの背後には、資本の精神的潜在力に気づいていない、という事実があるのです。

 

 現代最大の虚偽の一つに、資本は土地と関わらせることができ、土地の所有権を受け継ぐために、資本を所有、蓄積、運用することができる、というものがあります。進化の中での資本の真の目的は、精神が大地に至る道を拓き、大地を精神化する、ということです。そのための能力、ならびに責任は、ますます個々の人間にかかってきており(それゆえに自意識が個別化されてきたのですが)、その意味で資本はそのことの経済的表現として付随的に登場してきた、とみることができます。資本にこのような意味合いを与えることは、全く新しい経済学に、現在の危機を直接乗り越えて行けるような経済学にそのままつながります。資本は他者に対する感覚、利他主義を求めます。資本は、その本性から社会主義にいたります。資本は社会主義とは完全に対立するものだ、という虚偽を世界全体が信じている、ということに気づけば、現代の深刻な悲劇を感じることができるでしょう。未来を資本主義か社会主義かの選択に求めることは、人が自分の右足で歩くか左足で歩くか決めるのと同様に不毛なことです。資本の誤った概念化からは健全な未来は発展しません。もしこの小論に何か目的があるとすれば、それは経済学に対する私たちの考え方を変えることに何らかの意味で貢献する、ということなのです。

 

 需要

 

 利他主義は経済学の中でいかにして道徳的色合い抜きであらわれるでしょうか?今日、政府が生産者となるような混乱した状況を除けば、需要のないところで生産を行なう人はいません(ここでは真の需要と作られた需要の違いは問題ではありません)。必要とされていないものを生産することは無意味です。生産は常に需要、すなわち他者の欲求を充たすために行われます。需要は経済的な意味で(つまり、何かを欲するべきか否か、ということは別にして)利他主義の萌芽なのです。「私は需要を充たすために生産する」という言い方からほんの一歩踏み込めば「私は利他主義に基づいて生産する」ということになるのです。その違いは経済生活の構造変化というよりは意識の広がりにあります。

 

 利他主義の実践的意義は、暗黙のうちに「需要」、に含まれています。経済学においては「需要」という概念は欲求の総体をあらわします。欲求の中身が物質的か(自動車)精神的か(青い自動車)は問題ではありません。経済的には、何かが必要とされていて生産されねばならない、という事実にまとめられています。通常の経済学では「需要と供給」が論じられます。しかしこれは間違いです。経済自体には供給というものはないのです。「私は供給するために生産する」という人はいません。人は

 

)自己を表現するために、

 

そして

 

)他者の欲求を充たすために

 

生産するのです。決して供給するためではありません。供給という概念は私たちの目を経済生活の現実の要素から逸らしてしまいます。現代の経済学が資本と精神の関係から私たちの目を逸らすのと同様、供給という概念の普及によって生産の背後にある真の力、すなわち人間精神の開花という事実が覆い隠されてしまうのです。

 

 どんな取引も、当事者は自分の欲求のために参加します。おのおの、何か入用なものがあるので市場に行きます。当事者双方に需要があります。需要は共通の分母です。お金が使われている現代経済においては取引参加者は必要なものと交換にお金を払います。お金は実際のものの代用品に過ぎませんから、現実に起こったことは「需要と供給の相互作用」ではなく、需要の交換、需要の差別化なのです。経済プロセスを「吸い出」し、前進させるのは、普遍的に作用する需要です。反対に経済プロセスを「押し出」していくような動機の共同作用があるのも事実ですが、これは「供給」では説明できません。なぜなら、供給という概念は供給された価値の源泉を説明できないからです。この要素は、既に指摘したとおり、人間精神の開花です。

 

 経済学の中の供給という概念が余分なものであるという考えによって、私たちは旧来の経済学と袂を分かちました。応用経済学に分け入っていけばこの乖離はますます広がるでしょう。例えば、「供給」概念なしでは経済学の基盤としての「需要と供給の力」を論ずることはできませんが、現代経済学はまさしくこの観念に基づいて形成されています。そこで、次の疑問が生じます。この、抽象的な隠れた力、という観念は何なのか?実際は何が起きているのか?供給の力という観念は、人間の外部にあってその支配が及ばないようなプロセス、生活の中のアンバランスを恣意的に解決してくれるようなプロセスを意味します。これは事実に反するものです。ここでいい加減に「需要と供給の力」といわれているものは、互恵性のプロセスなのです。作られた価値が全て費消されることを保証してくれるのは、互恵性です。収穫が低い年の人参の価値が上昇するのはその稀少性によるのではなく、人参生産者が次の収穫までの需要を充たすために交換する人参の数が少なくなるからです。ある価値は他のあらゆる価値によって互恵的に決定されます。このような考え方それ自体は、唯物論的経済学のものとそれほど違いませんが、「外的な力」という観念において違いは際立ちます。「力」をこのように論じることで、互恵性という観念に特定の誤った意味合いが与えられてしまいます。それは次のようなものです:人間は互恵性を受け身的にしか体験できない、経済生活の偶然的変動は避けられない、自然において千個の卵から1つか2つしか生き残らないのと同様、財産は偶然によって形成され、また失われる。もちろん、自然においてはそのように生活が営まれます。しかし、自然の生態学は人間の経済学と同じではありません。比較することはできないのです。

 

 経済学は既に述べたとおり、自然―人間―精神の特別な関係から生まれました。'economics'という言葉がまさしく農耕を意味する限りにおいて、人間は受け身どころか、能動的なものであるはずです。私たちの力が及ばない需要と供給の力に何もかも押し込んでしまうのではなく、私たちが認識できる互恵性を語ることを学ぶべきなのです。経済学には外的な力などありません。人間の能動的な意識こそが経済学の精髄なのです。私たちの近代的な意識に対して、人間は経済生活に関しては無力である、という考えを冠するのは馬鹿げたことです。それは戴冠ではなくて退位です。王様がそんなみすぼらしいものをかぶっていては、王国が乱れるのも当然です。

 

 交換

 

 実際生活において生産と消費がぴったり一致するということはありません。年に必要な人参の量を正確に生産することは不可能です。そうするためには消費者の側で必要とするもの、買うと約束するものの完全な一覧表が覧表が必要です。また、予定通り収穫できるよう、自然が完全に服従しなければなりません。が、自然は決して意のままにはなりません。自然がそうする必要があるでしょうか?それに、615日に人参が必要かどうか11日にわかる人はいません。そんな必要があるでしょうか?実際生活では人は集計と予測に基づいて事を運ばねばなりません。これが分配の役割です。生産と消費はそのままでは常に食い違ってしまいます。が、分配というのは正確な言い方ではありません。正しくは「交換」というべきでしょう。

 

 私はこれまで生産から消費への動きが経済プロセスをもたらし、進行させていく様子を描写してきました。また、人間がその本性から自然界と精神界に属していること、この二つの世界では生成と死滅の休みないプロセスを一方が他方に映し出している、ということも示してきました。生産と消費のバランスの中に生きることで、人間はあるときは自然の領域に、またあるときは精神の領域に引き込まれ、物だけではなく、資本をも作り出すのです。このプロセスの核心にもう一つのプロセスが存在します。それは交換のプロセスです。交換という概念は経済学の中で最も重要なものの一つです。経済学はすべてこれについてのものなのです。経済生活の巨大な広がりは交換において集まり出会います。交換は経済学の究極の蒸留物であり、人が精神と自然の間に作り出した分裂を解消する瞬間に生じます。交換は相互化です。交換は生産と消費が出会う場、資本が生み出される場、すなわち、経済プロセスの中で今後の生産をいわば裏打ちするために戻っていく価値が生産の中から生じる一点なのです。人体における心臓のように、交換は経済のプロセス全体によってもたらされ、経済のために経済から生じた、経済生活の調整装置なのです。交換の性質を正確に知ることによって、単なる抑制や阻害ではない真の調整プロセスを知ることができます。

 

 交換という営みのかぎとなるような基盤を、人間のどこに見出すことができるでしょうか?生産は精神の自己実現によって生じます。また、精神は自己実現の際、必ず需要をつくりだす、という事実を通じて、消費が人間から生じます。この二つの間に、精神と地球の関係から意識が生じます。意識とは、私たちの知覚が完全な正確さを得て私たちが世界を知る瞬間なのです。交換の素材は知覚です。ですから、典型的な交換者である仲買人は、需要を知覚し、可能性を見取り、相互化の瞬間を認識することで暮らしているのです。経済生活を調整し、生産と消費の相違を正し、価値のプロセスが完全に実現されるようにするのが知覚の役目です。知覚が正確であるほど、その経済的価値は高まります。心臓が全人体から作り出され、人間の生を可能にするように、交換は経済プロセスの進行を可能にします。交換はさらに、次のような意味において経済学の人間的要素となります。すなわち、生産は他者のため、消費は自己のために行なわれるが、交換はいずれか一方だけには属さない、ということです。それは無私でも利己主義でもありません。この二つの分解したものなのです。人間についても同じです。人間は利己的にも無私にもなりうるのですから、どちらか一方だけによって生きることはできません。二つの組み合わせによって生きるのです。そうすることによってのみ、真に人間たりえます。真に人間的な経済、人間の顔だけでなく、心を持った経済は、このような方法の結果として生まれるのです。

 

 先に、財は概してその経済的本性に適った道筋を社会の中で辿っているが、資本はそうではない、と述べました。さらにここで、交換は誤ったやり方をされることはない(資本を売ることはできても、交換することはできない)が、誤って捉えられることはありうる、ということができます。交換の誤った認識から、種々の経済理論は生じたのです。これらの理論は、そこから経済プロセスの社会的位置づけを決めるような経済実践が作られるため、大きな影響力を持っています。現代の社会的努力と調和するような交換概念を緊急に作り上げなければなりません。人間は経済プロセスの真髄を見通し、真の社会的要素を見出す必要があります。このことを心に留めた上で、さらに経済学の基本的観念を三つ見ていきましょう。それは、利益、生産手段、そして貨幣です。

(訳:佐藤由美子)

 

著者:クリストファー・ホートン・バッド

 

 

長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています